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亭主は「私」に「奥さんの前ですけれども、四国の殿様のそのまた分家の、おまけに次男なんて、そんなのは何も私たちと身分のちがいがあろう筈が無い」と言った。亭主は大谷の身分について、庶民と違いがないと指摘した。したがって、大谷の妻という身分も普通の妻と違いがなくなり、次の日「私」は「もうとても黙って家の中におられない気持で」、子供を背負って、家から出た。これまで、「私」はずっと「身分象徴の空間」に縛られてきたが、今は「家の中におられな」くなったのは、亭主の話は「私」が自分の身分についての認識を揺らしてしまったのではないか。

「私」は家から出て、電車に乗った。電車で、「私」は天井のポスターを見た。

夫の名が出ていました。それは雑誌の広告で、夫はその雑誌に『フランソワヴィヨン』という題の長い論文を発表している様子でした。私はそのフランソワヴィヨンという題と夫の名前を見つめているうちに、なぜだかわかりませぬけれども、とてもつらい涙がわいて出て、ポスターが霞んで見えなくなりました。(P126)

大谷のポスターは電車の上の空間にあり、「私」は電車の下の空間に立つ。「私」は仰角の視線で大谷のポスターを見なければならない。その時、虚像の大谷は「私」の上に凌駕するようになる。家に対して何の責任も持たないクソ男が外ではポスターに載れる人で、同じ人の二つのイメージが強烈な対比になっている。大谷は自分の輝いているところを世の中の人に見せ、汚いところは「私」だけが知っている。高田知波は「電車の吊り広告を見た『私』の眼にあふれた涙は、大谷像の極端な落差にもとづくものではないだろうか」、「雑誌広告で論文発表を宣伝されている大谷像と、家にはまったくお金を入れず、あまつあえ泥棒事件まで引き起こし、ナイフを振り回して姿を消した大谷像との懸隔の大きさによるやるせない感情の高まりであろう。」50と指摘する。「私」は大谷のもっとも親密な妻のはずであるが、大谷の光栄をシェアできないのである。つまり、「私」が衝撃されて、小金井の家に籠って、詩人大谷の妻という身分を執着しても何の意味もないと分かった。身分の束縛が軽くなれば、反抗の阻害も軽くなる。

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第 3 章「ヴィヨンの妻」の「大谷」像......................33

第 1 節「大谷」の順応性...........................33

第 2 節「大谷」の矛盾性..........................37

第 4 章文学空間と人物像...............................44

第 1 節人物像による文学空間の拡大.........................44

第 2 節文学空間による人物像の限定...............................47

第 4 章文学空間と人物像

第 1 節人物像による文学空間の拡大

大谷が窃盗した夜、椿屋の夫婦が小金井の家に追いかけ、結局大谷は逃げてしまった。それから、「私」は「はあ、どうぞ。おあがりになって。そうして、ゆっくり」と言い、椿屋の夫婦を小金井の家の内部空間に誘った。椿屋の夫婦が小金井の家に侵入することによって、この家の本来の秩序が乱され、閉鎖性が失われしまった。前田愛は「人間の意志の領域が空間へ拡張されていく姿である」68と述べる。椿屋の夫婦が「私」に椿屋の過去を紹介する時、椿屋という空間は夫婦の話を通して、小金井の家という空間と入れ替わった。椿屋はこのように経営してきた。

昭和十一年でしたが、六畳一間に狭い土間附きのまことにむさくるしい小さい家を借りまして、一度の遊興費が、せいぜい一円か二円の客を相手の、心細い飲食店を開業いたしまして、それでもまあ夫婦がぜいたくもせず、地道に働いて来たつもりで、そのおかげか焼酎やらジンやらを、割にどっさり仕入れて置く事が出来まして、その後の酒不足の時代になりましてからも、よその飲食店のように転業などせずに、どうやら頑張って商売をつづけてまいりまして…所謂あの軍官の酒さかなが、こちらへも少しずつ流れて来るような道を、ひらいて下さるお方もあり、対米英戦がはじまって…この商売一つにかじりついて来て、どうやら罹災もせず終戦になりましたのでほっとして、こんどは大ぴらに闇酒を仕入れて売っているという。(P112)

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終わりに

本論は文学空間と人物像の関係を分析した。人間のすべての活動は空間の下で行い、同じ空間の下で、多様な人間が存在するのである。それは空間の「包容力」と言える。

小金井の家という空間は「包容力」があるといえる。「私」と大谷はまったく違う人間であるが、その空間の下、共同生活している。小金井の家には夫婦の絆が薄く、一家団欒の雰囲気もないにも関わらず、「私」も大谷もこの空間を捨てようとしない。大谷は家父長としての責任を取らず、「私」は極貧、極苦痛の生活をしつつも、華族大谷の妻という身分に満足し、執着する。小金井の家は唯一の「私」の身分を証明する空間であり、「身分象徴」の機能を持っている。つまり、「私」にとって、小金井の家は「家族を包容する空間」というイメージが薄く、「身分象徴の空間」なのである。それに対して、大谷にとって、小金井の家は「安全な空間」である。小金井の家は世間から離れている存在なので、この空間の閉鎖性が顕著であり、「ストレス解消」の機能を持っている。そのうえ、「私」は小金井の家に束縛されているため、「私」の身分は大谷の妻しかなく、単一的な身分は「私」の「純粋」さを保つことができる。その純粋さも大谷に一種の安心感を与えている。大谷にとって、その安心、安全な空間は不可欠なものである。それ故、小金井の家は二人にとって、必要となる空間である。即ち、空間は物理的な意義を持つ以上、象徴的な意義も持つ。象徴的な意義は空間に様々な機能を備え、空間の機能が多ければ、空間の包容力も強くなる。

参考文献（略）